2013年7月30日火曜日

⑤ダイアログと学習:「人間の学習は、物語と共にある」


人間の意識や学習は物語という概念が基本になっていると思います。
私なりの定義では物語というのは体験や感情の動きを固まりとして認識する事だと考えています。

1)人間と物語の関係

人類が道具を使い文明を築いてきたのは、言い換えると「物語」という認識方法を習得してきた歴史なのではないかと思います。

物語は人間が意識の世界をどう受け入れて、どう表現するかという根幹の仕組みであると私は考えています。

例えば、神話や民話などは古くから伝わる物語であり、世界中のお祭りもほとんどの場合、物語を象徴するもの、とされていると私は考えています。また宗教においても原始的なものでも近代的なものであっても、物語が、そこにはあると思います。

音楽なども「物語としての認識」がベースになっていると思います。音楽は人の声やモノの音を時間の流れとして表現していますよね。最初は「アー」とか「ウー」とか唸り声だったものが、洗練されメロディーを奏で始め、言葉を乗せていったのでしょう。時間の流れ(期間)と共に変化する音の表現、まさに物語なのではないでしょうか。私の勝手な仮説ですが、物語を認識したから時間の概念が生まれたのかもしれません。

人類が慣れ親しんできた考え方やコミュニケーションの概念は物語が基本となっていると思います。
逆に言えば、進化の過程において「物語というフレーム」が人間の学習を促進した、という考え方はどうでしょうか。人類は物語によって学習してきたということです。

象徴的な例を挙げます。
ミクロネシア連邦のヤップ島にある石貨は、石のお金、貨幣です。しかし現代の私たちが考えるような流通する貨幣ではないのです。この石貨は、遠くパラオの石を切り出し、アウトリガーカヌーによってヤップ島まで海上輸送されたものです。この石貨は結婚の贈り物とされるなど、儀礼的な意味で使われます。使われると行っても物理的な流通はありません。その場所に置かれたまま、所有権が代わっていきます。

この石貨の価値は、物語です。先にも書いた結婚など儀礼的な意味と、同時に石貨の価値には、その石貨がどうやって運ばれてきたのか、航海の時の苦労、誰が命を落としたか、という物語までも含まれています。現在でもヤップには石貨がたくさんあるのですがその大半は外国人が蒸気船で運んできたもので、現地の人に言わせるとほぼ価値の無い石貨だそうです。運んできた物語に価値があり、物理的な石貨に価値が有るわけではない。

更にはアウトリガーカヌーの建造方法、パラオまでの航海方法や海図など、書いた言葉がないので口伝による物語としてすべて口伝されていくのです。そうやって現代の航海の通信コンピュータ技術に匹敵するぐらい高度な航海術によって石貨の輸送が行われていたのです。

このように、物語として人間の知恵が継承され、実は現代から見ても非常に高度な技術を持っていた民族もいたのです。

2)人間の成長は物語の成長でもある

命を授かり、母親の胎内で成長する胎児は、徐々に母親や外界とのコミュニケーションを学習していきます。数ヶ月経つとすでに胎児は音や温度によって反応しているそうです。

生まれた後、ものすごい速度で、外界に影響を受けながら学習をしていきます。音や母親の声や身体感覚とふれあい、自己を認識していきます。

生まれてから幼児期までの躾において、この時期は人間としての学習能力の習得期間として非常に重要な時期だと言われています。それは何故か?

対話型学習の習得期間でもあるからです。対話とは、自分の中にある物語と、外(未知)の物語との出会いなのです。実はこの幼い時期はどれだけ数多く新しい物語と出会えるかが、大人になってからの学習の質に大きく影響する学説もあります。

絵本の「読み聞かせ」が最近流行っていますが、これは自分の中で物語を熟成する学習であり、非常に重要であると言われています。物語を母親の声で体験し、自分の物語と照らし合わせ、組み合わせていく中で疑問が生まれ、感情が溢れてくるのです。疑問が生まれると言葉を使える場合は「どうして?」と母親に聞きますし、自分の中で対話型に考えていくことも行います。感情が溢れると自分の物語が、より強固に記憶されていきます。

このように人間の成長は、物語をどう認識して、どう表現するかという対話型学習が重要な要素なのです。ある意味人類の学習の歴史を再体験しているように思えますね。

3)物語は多くの人によって共有される

物語は、人づてに伝わっていきます。言葉もそうですが気持ちや雰囲気も伝わっていきます。

物語がどのように伝わるか。

1)誰もが自己の中に、物語を持っており、物語を言語や身体で表す。
2)人が人の物語を受け入れ、相手の物語を自己の中で想像したり、お互いに自己の物語と統合していくこと。
3)その過程で人は感情をイメージ化して物語の融合や統合しながら記憶していく。

このように物語をお互いに共有したり交換していくことで、創発的な意識の変容が行われてきたのではないかと思います。

気持ちや雰囲気が伝わる、というのは「感情をイメージ化する」という認識です。つまり「今、自分が持っている感情は、相手のものなのか、それとも自分のものなのか、がわかならくて、ひょっとすると一緒かもしれない」という感覚を生み出すと思います。

物語は、感情をイメージ化し共有感覚を生み出します。多数の物語を共有すればするほど感情のイメージも共有されていくのです。つまりこれが「対話」なのです。対話は人間の物語を共有し創発を生む仕組み、と言えます。
そう考えると幼児期に「読み聞かせ」によって対話学習で感情のイメージ化を促進していくことは、理にかなっていると言えるでしょう。

よって物語による感情のイメージ化経験が少ない事は、共有できる資源が少ない事にもつながります。対話学習の経験が不足すると、共有する資源が少ないために、相手や社会の事が、イメージとして捉えにくくなるのです。これは発達心理学でも言われていますね。

ではイメージとは何か?イメージとは「自己内で再体験できる感覚の集まり」と言えます。その意味では時間と空間を再現したり超越しますね。時間と空間は物語を構成する重要な要素でもありますが感情をイメージするということは時間と空間を自由に構成すると同時に、時間と空間から解き放つ役割をします。解き放つから再体験できる。

4)対話と議論

対話は、物語を共有する仕組みとして人間の創発に影響を与えてきました。

もう一方の考え方もあります。

それは議論です。

議論は、事柄を客観的に捉え、細分化して、シンプルにしていくことです。人間の論理的な理解の基礎となっているものです。実はこの議論も人類の発達に大きな影響を与えてきました。例えば、科学であったり哲学であったり。

学習という視点から見ると、対話は対話的学習という物語ベースの学習なのですが、議論は知識的学習という論理ベースの学習です。一般的な学校教育や企業内教育においては、たいてい議論ベースの知識的学習が導入されています。

しかしながら、今現代の社会において問題とされていることは知識的学習に偏っていることが要因ではないかと感じます。問題を可視化し、データを集め、分析し、仮説を当てはめる・・・。

実はこの知識的学習というのは、幼児期に「読み聞かせ」のような対話的学習が積み重ねられ、大人になっても「対話」ができる、つまり物語が共有できる素地があるからこそ、機能するのです。

知識的学習つまり議論は、物語を共有する対話があるからこそバランスすると言えます。

なぜかというと、議論は「正しさ」を求める学習なので、正しさを定義する必要があるのですが、実はこの定義を擦り合わせる作業が難しいのです。

擦り合わせようにも、そもそもお互いの意見を相容れない人間がいると、「正しさ」が定義されないまま、個々の「正しさ」を求めていくので、いつまでたっても答えが出ない、または毒にも薬にもならぬ答えが積み重なることに結びつきます。

議論の世界しかないという先入観も、要因の一つでもあります。対話があるのに、議論しか見ない。言い換えると、知識や論理こそ知的生産であって、物語は娯楽である、と。

現代の彷徨う社会において、物語はとても重要な要素であると感じています。それは「バランスしていない」からです。

何のバランスか?

対話 と 議論
物語 と 論理
イメージ と 知識

近代では「何を知っているか?」が問われてきましたが、これからの時代は「何を語り、共有していくか?」が問われる時代になると感じています。

先に進まぬ議論が目の前で繰り広げられるなら、誰かが「対話をしよう」と声を掛ける。これこそが、これからの人類の知的生産性を向上させるポイントであると私は考えています。

我々ディープルート社においても、 雑多に多忙な日々を送るのではなく、時には一歩立ち止まって
知的生産性や全体最適の最大化についても考える時間をつくり業務の設計やマネージメントの在り方の再構築が必要と考えております。なかなか実践出来ていないのですが・・・。

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